『55th day ー 太く生きる。』
9:36 AM
朝起きたが、それほど寒くない。
天気は曇りのようなので、走りやすいかもしれない。
11時、国道443号線にでた。
この道が最悪だった。
片側一車線の狭い道路なのに大型のダンプカーが行き来する。
コンビニもなく、僕は昨日の夜食べたて出たゴミを抱えたまま、
3時間も経っていた。
歩道の狭さと車の往来、ゴミに、足の痛み、しかも、登り。
もう最悪にもほどがある。
トラックの運転手を恨む。
明らかに抜け道で使っているだけで、こんなところに用があるわけない。
400番代の国道に大型車が通ること自体、間違っているのだ。
今日はずっと山道が続く。
熊本にも入ったが、毎度代わり映えのしない道なので書くこともないので、
ここで最近僕に起こっているある現象について書きたい。
広島を過ぎたあたりから起こっているのだが、
それは「デジャブ」だ。
毎日違う道、新しい土地を走っているわけだが、
「あれ?ここ知っている」「前に通ったような…」といったような記憶がある。
それはもちろん通ったことがあるのではなくて、
同じような場所をこの2ヶ月の間に何十回も見てきているから、そう錯覚するのだ。
このような錯覚が一日に何十回も起こる。
たとえば、郵便局を見ると、
「相生のホテルに続く道路を左折するときに、角に郵便局があったこと」や
ミニクーパーのショールームを見ると、
「盛岡駅を越えて少し行った斜めに入る道の右側にミニクーパーのショールームがあったこと」
自転車に乗った中学生を見ると、
「岡崎の手前、20kmあたりの峠で中学生の集団に追い抜かれたこと」
ベンチを見ると、
「静岡の吉原に向かう途中、ただまっすぐの並木道に木のベンチがあり、もうここで寝ようか。と考えたこと」
などなど、
ブログにも、写真にも残らない、僕の記憶の中に焼きついている数々のシーンがフラッシュバックしてくる。
それだけ印象が深いのだろう。
そんな記憶が、この2ヶ月で膨大に記憶されている。
「一生に残る思い出」とは、こういうことなのかもしれない。
よく、「太く短く生きる」とか「細く長く生きる」とかいうのは、
「思い出の質と量」によって分類されるのではないだろうか。
僕は断然「太く生きる」「濃い質と量を短時間で経験する」ほうを勧める。
なぜなら、太く生きるほうが時間を有効に使っている気がするし、
たとえ少しの無茶(といっても人によって程度は違うが)をしても、
だいたいは死ぬことはないのだ。
反対に、長く生きようとするために、できる限りのリスクを排除しても、死ぬときは死ぬのである。
台風や地震など天変地異が絶えない日本ならなおさらだし、
乗っている電車が衝突事故を起こすことや、突然天井が崩れ落ちて生き埋めになることだって、あり得ないこともない。
長く生きるというのは、そういった”IF”を排除して成り立つものである。
それでも想定外のことは起こり、死に至ることだってあるのである。
僕が尊敬する人の一人に、一ノ瀬泰造というベトナム戦争時代に活躍した写真家がいる。
その人の言葉で、
「常に死を意識したとしても、また、生に執着したところで、
人間どこに居ても死ぬときは死ぬ」
という言葉がある。
まさにそのとおりではないかと思う。
そんな戦時下で生きているわけではないが、
たまたま私たちは生きながらえているだけで、何かの拍子に死が訪れることだってあるだろう。
だから、いつ来るかわからない死を恐れるのなら、
それまでに後悔しない、濃い、太い人生を歩むほうがいいのではないか。
そんなふうに思うのである。
この2ヶ月は、めちゃくちゃ濃く、たとえ半年後に死んだとしても、
人生を後悔しない記憶になるだろう。
さて、8時過ぎに熊本市の中心部に到着。
繁華街は賑わっており、明らかに場違いだったが、正々堂々と走り、ネットカフェに到着。
もうここを過ぎると、こういった繁華街を走ることがないかもしれない、と思うと少し寂しかった。
今日の移動距離:55km
累計:2740km
佐多岬まで271km
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