リタイヤしてからが本当の地獄
こんにちわ!パーソナルランニングコーチのREDです!
先週末は、キャノンボール・六甲縦走往復112kmに参加してきました!!
今回は、
もう散々サハラに向けてのトレーニングをしてきたので、
これ以上、成長は望めないので、とりあえず完走を目指して走り、
18時間弱でゴール!!!
徹夜で走り通したので、爆睡でしたZZZ
これで、3月の怒涛のレース参加は終了。
あとは、サハラのみ!!
って、
気づけば、出発まであと1周間を切りました(・o・)!!!
出発は4月6日の午後便です!
さすがに寝坊することはないと思いますが、
久々の海外でワクワクします!!!
リタイヤしてからが本当の地獄
■ さて、
先日、2年前のサハラマラソンをリタイヤした時のことを書きました↓↓
今日は、それから4ヶ月のことについて書こうと思います。
■ リタイヤしたあと、
私たちは5時間ほど車に載せられて、ワルザザードの街に到着しました。
道中の車内では、初めこそ、悲壮な雰囲気に包まれていましたが、
しばらくすれば、泣く人もいなくなりました。
しかし、
依然として、雰囲気が暗いことには変わりありませんでした。
ワルザザードでは、
2人一部屋の部屋があてがわれました。
とりあえずクレジットカードは使えるので安心しましたが、
何もすることはなく、
ただただ読書をしたり、街を歩き回って時間を潰しました。
結局、このホテルで6日も過ごしたことになります。
同室になったMさんは、
リタイヤしたことに特に落ち込んでいる様子はありませんでした。
聞くところによると、
あまりトレーニングもしていなかったらしく、
「元から無理だったんだ」
そんなふうに思っているように見えました。
それに比べて、
私は必死になってサハラに向けてトレーニングをしたのに、リタイヤ。
そしてとても落ち込んでいる。
「これまでに俺は何やってたんだろうか…」
過去にどれだけ頑張ってきたとしても、
とくに頑張ってこなかっても、
結局は、ふたりとも同じ「リタイヤ」
自分が一生懸命やってきたことが、恥ずかしく感じました。
■ 日を追うごとに、リタイヤした人がホテルに到着してきます。
大会中こそ、脚が攣って歩くのも精一杯でしたが、
翌日には完治し、歩いたり走ったりすることもできた私は、
毎日、午後になると、
リタイヤした人が運び込まれるインフォメーションデスクまで、出向きに行きました。
リタイヤした人の中には、日本人も多く、
中には、靴の底が剥がれ、血豆もひどくなり、それでも走ろうとしたがために、
かなり痛々しい脚をしている人もいました。
その姿を見るのはとても堪えなかったです。
なによりも、
「同じリタイヤしたにもかかわらず、自分がまだ全然走れること」に、
自分への腹立たしさと、後悔ばかりが湧いてきました。
■ 数日すると、
ゴールした人がワルザザードにバスで到着します。
みんな、やり遂げた感や充足感で満たされていました。
ホテルにいて、塞ぎこんでいてはいけないと思ったので、
できるだけ、前向きに考え、
完走者の話を聞きに行ったり、
観光に同行したりしましたが、
あまりにも雰囲気が違ったので居づらく、
いつの間にか避けるようになっていました。
■ 1週間近くホテルでなにもすることなく、
暇を持て余していましたし、
かつ、
周囲の人との温度差があまりにもあり、
そこから逃げ出したい気持ちでしたので、
ワルザザードを離れるときには、
内心「やっとか」
とホッとしましたが、
それと同時に、
「この数日間はなんだったんだろう…?」
という、なんとも言えない感情もありました。
それでも、
機内に乗り込む途中、
はるか向こうに見える茶色い大地を見えると、
悔しさがこみあげてきて、
「絶対に帰ってくる!!」
と心に決めたことだけは、今でも覚えています。
■ パリについてからも、地獄は続きました。
「せっかくパリまで来たのだから」と、
事前に余分に1泊取っていたのですが、
ワルザザードで多額のホテル代と滞在費を使ったため、
余裕なんてありません。
芸術の都・パリも、
そんなもの私にはなんの意味もなく、
ただひたすらホテルに籠もっていました。
部屋の窓が小さく、高いところにあったため、
陽の光も入らず、鬱屈した気分が続き、
考えたことといえば、
「いっそ、切腹でもしようか」と、考えたくらいでした。
でも、そんな勇気もなく、
そんな自分にまた情けなくなりました。
■ その後、また飛行機で一日近くかけて、ベトナムに帰ってきました。
(注:その当時はベトナムをメインの活動場所としていました)
まだサハラをリタイヤしたことを引きずっていましたが、
それ以上に、人と顔を合わすのがイヤでした。
絶対にサハラマラソンのことを聞かれると思っていましたし、
出発前に盛大に激励会まで開いていただいたのに、
完走できずに終わるなど、恥ずかしい限りでした。
しかも、
初日でリタイヤした、など、
情けなくて情けなくて仕方がなかったです。
穴はあったら入りたい、
ほんとうに合わせる顔がありませんでした。
そうはいっても、生活するためには外出しなければなりません。
ホーチミンという、狭い街では、
みな、生活圏もよく似ています。
食事する場所、使うコンビニ、美容院など、
どこかに行けば、誰か顔見知りに会います。
このときはそれが一番苦痛でした。
誰かに会っても、どんな顔して人に会えばいいのか、
とにかく人に会うことを恐れて、ガクガクブルブルしていました。
帰国して、3日目ぐらいに、
近くのコンビニで顔見知りにお会いしたときに、
ろくに挨拶もせず、そっこーでその場から逃げ出したことは、
とても失礼極まりなかったと思います。
でも、それくらい人に会いたくなかったのです。
しばらくすると、
徐々に人前に出ることも慣れてきました。
が、
サハラの話になると、
詳しい話をせずに、別の話に切り替えるように話を持って行きました。
いろいろと話を聞きたい人も多かったでしょう。
その人達には、ほんとうに悪いことをしました。
ときおり、
優しい人に、励ましの言葉をかけていただきましたが、
その気持ちが有難いぶん、それを結果に変えられなかっただけに、
逆に辛かったです。
■ その一方で、
「自分でも、いつまでもこのような状況はよくない」
と、わかっていたので、
なんとか気持ちを前向きにさせようと必死でした。
そのために、
「有難い」を何百回も唱え続けました。
「有難い」
「有難い」
「有難い」
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
と、
日中時間があると、ひたすら頭のなかで「有難い」を連呼し続けました。
「病は気から」と言います。
「現実は、変えられませんが、
その出来事を言葉によって、ポジティブに意味づけすれば、
サハラをリタイヤしたことでさえも、ポジティブに捉えられる」
と思いましたが、
この1年半、あまりにもサハラに強い思いで力を注いでいたので、
頭ではポジティブに捉えようとしても、
身体はなかなか言うことを聞きません。
そんな状態の中で、
サハラに行く前のように、
RUNの企画を立ちあげるも、自分自身が途中リタイヤ。
ハーフマラソンに参加しても、なんとかギリギリ完走。
フルマラソンに至っては救急車に運ばれてリタイヤ。
など、
本来の自分とはかけ離れた結果ばかり。
人に言わせれば、
『それはスランプだ』
そうですが、
だからといって、その解決方法がわかりません。
あまりにひどいので、
一度1週間ほど全く走らず、
RUNから距離をおいたこともありました。
■ それに加えて、
翌年のサハラマラソン(2015年大会)の募集が、
帰国後、1ヶ月もすれば開かれました。
しかし、
すぐに大会費(40万円)も用意することなどできません。
慌ててどうしようか必死になって思案しましたが、そうこうするうちに、
あっという間に定員割れしてしまい、
この時点で次のチャレンジが、早くても2年後になってしまいました。
絶対に翌年リベンジすることを心に誓っていましたし、
これまでにもかなりのトレーニングをしてきたのに、
また2年間もトレーニングしなければならないこと、に、
気が重くなりました。
■ また、畳み掛けるように悪いことは続きます。
サハラ直前に新しい職に内定していたのですが、
そちらでもうまくいきません。
いろいろと知っていくうちに、解決不可能な問題が根底にあることがわかり、
いくらやっても状況は良くなるどころか、悪くなるばかり。
生活は先細り始め、このままでは生活が破綻するのは目に見えていました。
■ もう何をやってもうまくいかない。
何をやったら良くなるのかもわからない。
ツライ。。。
とにかくツライ。
そんな出口のない地獄の日々が続いていたのです。
そんな折、思いついたのが『日本縦断走』でした。
かなり長くなってしまったので、また次回に続けます。
[まとめ]
- どれだけ頑張ってもリタイヤという結果。そして、まだ体が全く動くことに、とても悔しく思った。
- とにかく人に会いたくなく、いっその事切腹でもしようかと思ったこと。
- 「有難い」を唱え続け、ポジティブに頭を切り替えようとしたが、
体がついて行かず、本来の自分とはかけ離れていく。 - 何をやってもうまくいかない、地獄の日々が続く。
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