『なぜ、山に登るのか?』は一生かけての問い。
こんばんわ!パーソナルランニングコーチのREDです!
今日は用事が当て心斎橋まで足を伸ばしました。
日差しは出ていたものの、
歩く場所によっては、ビル風が吹き、強風が吹いていました。
今読んでいる小説とオーバーラップしました笑
どんな本を読んでいるかは、
本文にて☆
『なぜ、山に登るのか?』は一生かけての問い。
■ ここ数日、『孤高の人』を読んでいます。
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しばらく遠ざかっている、山(トレラン)ですが、
久々に「行きたい!」と思いました。
ので、
早速、来週行ってこようと思います。
行き先はヒミツですが、
今、無性に山に行きたいですね!
■ さて、
今読んでいる、孤高の人ですが、
「なぜ、山に登るのか?」
という問いがたびたび出てきます。
それに対して、書籍の中で、
「わかったような、わからないような、
それの繰り返しだ」
「それがわからぬまま一生を終える登山家も多い」
と、述べています。
または、
「単純に『その山があるからだ』というような答えでもない」
とも述べています。
「では、なぜ?」
と、山に登っていない人からたびたび問われるのですが、
答えに窮してしまします。
■ 私自身も、
はっきりした理由は答えられませんが、
この「なぜ?」
という問いに対して、答えられないことに概ね理解できます。
自分自身に対して、
「なぜ走るのか?」
と問われているのと同じように感じるからです。
人に会うたびに、本当によくこの問いに出会います。
■ 自分自身でも適切な答えがあるわけではありませんが、
一つの解として、
「自分自身に出会えるから」
「生きていることを確かめたいから」
というのが、現状の最善の答えです。
まだきっと、別のしっくりくる答えに出会うかもしれませんが、
『今のところのベスト』と言える答えです。
でもこれでも十分ではないと、無理矢理答えをひねり出したようにも感じます。
たぶん、「一生かけて問い続けていくことだ」と感じています。
■ もちろん、
「走っていると毎回それを実感できるか」というと、そうでもありません。
どのような状況であれば、それを実感できるか、
何度走っても、それは時にふと起こるので、
意図的にそれを起こすのはかなり困難です。
でも、
走ることが、自分の人生の大事な部分を担っていることは確かです。
予てからお伝えしています通り、
「走らなくなると、何かが崩れる、崩壊する」
という、
まだ見ぬ「抜け殻になった自分」が想像できます。
それだけは感じているものの、
「では、なぜ?」
に対して、
自分でもまだ最適な答えが導き出せていないような気がします。
その答えを毎回走ってをRUNの中に見つけようとして、
走っているのかもしれません。
■ ですから、
私にとって走ることは、「有用」です。
走る意味はあるのです。
ですが、
走ったことのない方、
これを経験したことのない方にとっては、
走ることは「無用」でしょう。
だから、
「なぜ走るのか?」
という問いになるのはないでしょうか。
その問に対して、対外的にも、自分自身に向けても、表現したいから、
このブログを書いている。
それがこのブログの1つの目的でもあります。
■ 山に登ることも、そんな単純な言葉では片付けられません。
少しトレランをかじった程度ですが、
「極めよう」「求めよう」
と思えば、
道は開かれるように感じます。
RUNのように、いや、RUNもそうですが、
タイムや距離と言ったこととは、別のところに答えがあるように思います。
それがなんなのか?
■ RUNももっと奥が深く、まだまだその淵に立ったばかりですが、
トレランにもなにかを求めたい気持ちがあります。
(雪山は寒いから勘弁して欲しいですが笑)
それがなんなのか?
今後もこのブログで書き綴っていこうと思います。
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今日はここまで。
[まとめ]
- 「なぜ、山に登るのか?」は、単純に「そこに山があるから」といった言葉では表せないものがある。
- RUNもこれと同じ。その答えは、一生かけて問い続けていくことだ。
- トレランはまだこれから。その入り口に立ったところだが、その答えを求め続けていきたい。
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